クラブのご案内

豊野町とスポーツ振興

設立物語

 平成17年1月に長野市との合併を控える豊野町の中では、合併後の新たなスポーツ振興の核となる責任ある推進役が決まらないまま、豊野町体育協会、スポーツ少年団、公民館本館役員の解散会が次々と行われていました。
 平成16年12月、当時の町体育指導委員会委員長清水博氏は、文部科学大臣賞を受賞したその祝賀会の席で、合併後の豊野町のスポーツのことを考える会「新年スポーツ関係者対談」という歓談を提言され、翌年1月2日おふくろ食堂に、各種スポーツ団体のリーダー20数名を招集し、その場で「豊野スポーツ協会」を発足させることに決まったことがはじまりです。
 後の有志50人程で組織する「ゆたかのスポーツクラブ設立準備委員会」の設置(平成18年6月)、その約2年後の総合型地域スポーツクラブ「ゆたかのスポーツクラブ」設立(平成20年2月)へと続きました。
 町時代のスポーツ組織と活動を衰退させることなく、維持発展させていこうという一点で意識統一を図り、一年間いくつかのイベントを開催し、町民運動会の運営にも積極的に協力をしました。
 また、運営資金的には大変厳しいものがありましたが、日本体育協会のクラブ育成(委託)事業や後のtotoスポーツ振興くじ助成事業の支援、また、地域の商工会をはじめとした地元企業からの賛助金にも支えられ、今日に至っています。

高度経済成長期~合併まで

 豊野町は元来、スポーツについては、昭和30年の豊野町連合青年団時代から、野球などスポーツは盛んであったようです。豊野町誌2『豊野町の歴史』によると、昭和30年代半ば頃までの県連合青年団の文化・スポーツ活動は政治活動に比べて低調でした。しかし、豊野町連合青年団では、昭和32年の町民文化祭での演劇・舞踊を披露して人気をよび、その後数年町民文化祭での発表が続きました。また、その文化祭ではコーラスの発表や弁論大会も行っています。野球やバレー、陸上などのスポーツ交流や大会も盛んに行われ、郡の大会等で優秀な成績を残したようです。
 しかし、昭和35年頃から、農業青年から通勤青年が主流になってきたこと、テレビの普及、生活の向上により青年団活動へ必要性が感じられなくなったことなどから、団員の急速な減少と集会出席率の低下がもたらされました。昭和47年には町連合青年団活動が停止となって、各種スポーツクラブも不都合を来すようになり、そこで翌48年スポーツクラブが中心となって各種サークルや地区の青年団にはたらきかけて、スポーツ青年団的な豊野町青年団が発足しました。
 また、小中学校の授業では、バスケットボールやバレーボールが加わり、児童の自発性や健康状態にも配慮する教育が進められるように変わっていきました。
 社会人では、野球やソフトボールのチームが各地域につくられ、昭和60年代から平成10年代半ば頃までは交流試合や大会など盛んに行われました。一方、町時代から子どもたちは野球のスポーツ少年団が早くから活躍していましたが、バスケットボール、バレーボール、剣道のほか、近年ではJリーグの影響からサッカー少年の増加が見られます。
 しかし、合併により施設の広域利用化で予約が取りにくくなったことや、公共施設の老朽化や再建などが活動が一時停止を招く事例も見られ、地域のスポーツ活動の停滞が懸念されている。
 これらの諸問題を、ゆたかのスポーツクラブは、お互いの力を出し合えば解決できるはずと考え、今後も地域全体のスポーツ環境を整えて健康と活力を与えられるよう前進を続けます。